音について/型について

情景を踊る、の情景は、翔くんの音によってもたらされるものです。

ですが、12月に入ってから、きやまときたさんによるduoのパート、

ほとんど無音で稽古してしまった!

稽古場に2人しかいない、ことが多い、としても、

ならば、音が情景なんだから、稽古方法をもっと考えるべきだった。

そして無音というのは最強の音楽なのかもしれない。

わたしは音について無理解でした。

無音の時間帯を無造作にぶっこむとは無意味なことでした。


反省しきりの今日このごろ、反省文を特設サイトで書いている。

なんじゃこれ。


先日インタビューを受けました。

京都の舞台人にインタビューしている高橋さんの企画

「頭を下げれば大丈夫」

でも音の話をしています。

作品についても、こと細やかに聞いてくださいました。

ありがたいことでした。

(公開はもう間もなく)



クリエイションが進むにつれて、つまり一回一回の稽古を経る中で、

音とは。音楽とは。

という問いはどんどん膨らんでいきます。

先日はきたさんが「音も共演者だ」と言いました。

ダンサー2人が関わって、さらに音とも関わって、これはduoではなくtrioです。

trioの稽古をしなくては。


インタビューでは型の話にも及びました。


「なんでこの作品の中に型を使おうと思ったのか」

「そもそも型とは」

稽古場でも翔くんに、どうして型をやるのかと、とてもストレートに問いかけられて、

わたしは絶句したのです。

わたしにとって型とは、ダンスをはじめる以前に吸収したものです。

踊るよりも身近でなじんでいるものかもしれない。

だからか、型から出ていくことがなかなかできないでいる。


今日あらためて型の稽古をしてみると、、、

ちょうど羅針盤が北を指す様子や、地球儀の地軸、地図の緯度経度、そういったものの一部になる感覚がある。

すでに無色の線がいくつもあり、じぶんの身体や意識がその一部になっている。


踊るという日々の中で、型がイメージを受けとめる「器」のように感じられるようになってきたのは大きな変化です。

なにか「通り道」のように感じることも。

ただ、いよいよ、型の外に出ていく時なのかもしれません。

それがどういうことか、今まさに模索しているところです。


きたさんが「イメージからダンスを導いている」と、これまでのクリエイションのプロセスを紐解いた上で、ダンスからイメージをもたらす必要性について話をしました。

型とダンスの間を行ったり来たりしています。





「情景を踊る」

kiyamania vol.8「情景を踊る」 2021年1月6日に京都・木屋町アバンギルドで開催されるダンス公演の特設サイトです。

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